カニバリズムとは食人行為の総称で使われる。人間にある共食い行為の事である。
電車や町中を歩いていて溢れる人間を「美味しそう」と思った事があるだろうか?答えはNOの筈である。しかし、過去に残る記録の中ではこのカニバリズムが多く見られる。
動物における共食い行為は、単に遺伝子の温存の為だけに行われる。生きると言うキーワードを刷り込まれた本能のみで動くし、食に対しても生きるという行為の一環でしかない。
しかし、史実から見る食人行為は愛憎、宗教的儀式、飢餓等、様々な理由・目的が上げらる。戦争という極限や飢餓状態を除いて、恐るべきは人間独自の食を楽しむと言う娯楽の一環として行われていたことだ。
執拗な拷問の後残忍な方法で調理し(生きたままとろ火で焼くなど)その肉を食すという行為だ。中世のヨーロッパや、古代からの中国などでそれが組織的にしかも頻繁に行われた記録が残っている。40年ほど前の文化大革命においても、食人行為が行われたという話しがあるくらだ。人間とは何者なのか?
私たちは、より残酷に食すと言うことに興奮を覚える傾向がある。海老の踊り食いや、活けす料理などが良い例である。生きている者を目の前で残酷に殺しながらそれを食べる。生食が多い日本料理に良く登場する。それを目撃し我々は興奮を覚え、残酷さを”新鮮””活きがいい”等という言葉でごまかして食べるのだ。魚や肉と云う者は、人間が知覚する味という判断基準では死後しばらくたってからが一番うまいと感じるという。つまり、目の前で殺してすぐ食べる時のうまさは、興奮というスパイスがふんだんに織り交ぜられているのだ。実におぞましい事である。
一方ではカニバリズムは人間の究極の愛情表現ともいわれる。恋愛感情を抱く者に対してのカニバリズムである。例えば、ベットで抱き合っているときに相手を思いっきり噛みたいという衝動に駆られる事があるし(エロチシズムも大いに関係する)、かわいさのあまり食べてしまいたい等と表現されることもある。相手を自分の者にしたい=体内に吸収するとう融合の感覚である。
つまり、カニバリズムとは人間の猟奇と愛情の両方を併せ持つ極めて不安定な本能と言える。私たちは、この心を潜在的に隠しもって産み落とされた悪魔なのだ。
1981年パリ留学生人肉食事件の犯人佐川一政によると、大腿部の脂肪層は「トウモロコシのような黄色をして」おり、食べると「マグロの刺身のようにやわらかかった」。その後二日間にわたって、肉に塩・コショウ・からしなどをつけて口にしてはエクスタシーを感じていたという。
「殺したかったわけではない。ただ、食べたかっただけだ。」
と語った佐川の言葉は人間の本能そのものだ
。我々はこの生まれ持った本能という悪魔と、理性という武器を片手に今日も生き抜かねばならない。
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